後北条側から離反の動きが見えるようになった。氏長は忍城守備を家臣に任せて小田原につめていたが、かねてから親しかった連歌の達人を通じ、里村紹巴を介して豊臣側に内通する内約を取り付けたが、未然に発覚し氏長は素蔵に押し込められる結果となった。また、6月16日に松田憲秀の長子であった笠原政晴が数人の同士とともに豊臣側に内通していたことが発覚。政晴一味の計画では忠興、輝政の両軍勢を引き入れる手はずであったが、一味の一人が江雪斎に計画を白状したため、政晴は氏直により成敗され、憲秀も押し込めと相成った。この成敗事件と6月23日に北方隊によって陥落させられた八王子城から首多数が送られ、また将兵の妻子が城外で晒し者にされたことが後北条側の士気低下に拍車をかけ、6月26日には石垣山一夜城が完成したことが後北条側に決定的な打撃をもたらした。俗に北条氏の一族・重臣が豊臣軍と徹底抗戦するか降伏するかで揉め、一向に結論がでなかった故事から「小田原評定」という言葉が生まれた。
7月に入ると、氏房、氏規がそれぞれ滝川雄利と家康を窓口として和平交渉に当たった。そして7月5日、氏直は徳川勢の陣に向かい、己の切腹と引き換えに城兵を助けるよう申し出た。家康は氏直を雄利、次いで信雄の元まで護送し、秀吉に氏直の降伏を伝えた。
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戦後、7月7日から9日にかけて片桐且元と脇坂安治、榊原康政を検使とし、小田原城受け取りに当たらせた。7月9日、主戦派であった前当主の氏政とその弟の北条氏照は最後に小田原城を出て番所に移動。7月11日、康政以下の検視役が見守る中、氏規の介錯により自害した。これとは別に、内通の手引きをした松田憲秀と早々に降伏して主家を裏切った大道寺政繁に切腹を命じた。氏政・氏照兄弟の介錯役だった氏規は、兄弟の自刃後追い腹を切ろうとしたが、検視役に止められ果たせなかった。その氏規と当主氏直は家康と昵懇の仲(氏直は家康の娘婿、氏規は家康の駿府人質時代の旧知)が故に助命され、紀伊国高野山に追放された。